【は】

曲名 解        説
「春 の 曲」

2001.4.10up
吉沢検校 作曲 松坂検校 増補(手事手付) 

 『鶯の谷よりいづる声なくば、  春くることを誰か知らまし。』 
大江千里 
  ・・・もし、鶯が谷からでて鳴く声がなかったなら、春が来ることを誰が知ろうか。〈知らないであろう〉
    「谷より・・・」・・・当時鶯は、冬の間、谷にこもっていると考えられていた。

 『深山には松の雪だに消えなくに、(松の雪は、もっとも消えやすいものである。)
         都は野辺の若菜(早春食用になる草の若菜、七草)つみけり。』
読み人知らず
  ・・・深山では、松の木に積もっている雪さえまだ消えていないのに、都では、野辺で若菜を摘んでいる。
          〈都の春は遅いのだなあ〉

 『世の中にたえて(全然。少しも。) 桜のなかりせば、
                    春の心はのどけからまし。 』
在原業平
  ・・・世の中に、全く桜がなかったら、春のころの人の心を悩ませることもなく、(さぞ)のどかであろうものを。

 『駒なめて(馬を並べて)いざ見に行かんふるさとは(旧都、奈良をさす。)
                    雪とのみこそ花は散るらめ。』
読み人知らず
  ・・・馬に乗り連ねて、さあ奈良に桜を見に行こう。しかし、今頃は、雪のように、花は散っていることであろう。

 『わが宿にさける藤なみ(藤の花)たちかえり
          
    すぎがてに(過ぎかねて)のみ人の見るらん。
凡河内躬恒
  ・・・わが宿に咲いている藤の花を往来の人々は戻ってまで見て、過ぎかねているんだろう。
             (かなり美しい藤の花だったのでしょうね!)

 『声たえず(声を絶やさず)なけや鶯ひととせに、
               ふたたび(二度と再び)とだに来べき春かは。
藤原興風
  ・・・鶯よ、声を絶やさずに今年は十分に鳴いてくれ。二度と再び来るはずのないこの春ではないか。
                               (今年のこの春は、一度しかないですね!)

この曲は、吉沢検校(1800〜1872)の作曲で、古今組(千鳥の曲・春の曲・夏の曲・秋の曲・冬の曲)の一つ。
明治の中頃、松坂検校により手事が加えられている。
歌詞は、古今和歌集から早春より暮春にかけての代表的な春の歌六首を選び、組歌としている。
「冬 の 曲」

1999.12.1up
吉沢検校 作曲 松坂検校 増補(手事手付) 

 
龍田川(奈良県・紅葉の名所:竜田川)  錦おりかく(錦を織っているかのような神無月(陰暦十月
            時雨の雨を    たてぬきにして。』 
詠み人知らず 
  ・・・時雨の雨を縦糸に川面を流れる紅葉の葉を横糸に、まるで、見事な錦を織っているようだ。
    神無月・・・「かみなづき」又は「かんなづき」諸国の神々がみな出雲に集まり神が無くなるのでそう呼んだ。
           出雲の国では、「かみありづき」というとか。(平成11年12月1日は、旧暦の10月24日)
    時雨・・・・・「しぐれ」 晩秋から初冬にかけて降る雨で、時々降ったりやんだりする。

 『白雪の   所もわかず(場所を区別せず)   降りしけば
            巌にも咲く    花とこそみれ  』
紀秋岑
  ・・・白雪が場所の区別無く降り積もれば、咲くはずのない巌にまで花が咲いているように見える。

 『三芳野の(吉野山)   山の白雪    ふみわけて
            入りにし人の    おとづれもせぬ(たよりさえくれない)  』
壬生忠岑
  ・・・世を逃れ吉野に入りて住む人は、帰ってこないばかりかたよりさえもくれない。

 『きのふといひ   今日と暮らして  飛鳥川(奈良県・大和川の支流)
            流れて早き(川の流れと時の流れ)  月日なりけり』
春道列樹
  ・・・人生振り返ってみれば飛鳥川の流れのように早く過ぎ去った日々であった。

この曲は、吉沢検校(1800〜1872)の作曲で、古今組(千鳥の曲・春の曲・夏の曲・秋の曲・冬の曲)の一つ。
明治の中頃、松坂検校により手事が加えられている。
前弾きは、雅楽の調子を使って優美で気品高く作られている。歌詞は「古今集 巻六 冬歌」から四首を選び
組歌としている。
「時鳥の曲」

2001.7.14up
楯山検校 作曲

 『わが宿の 池の藤なみ さきにけり、(「なみ」(波)に、池と「さき」に縁をもたせた。波のたつのを「さく」というらしい。)
               やまほととぎす いつかきなかむ。』
 読み人知らず
  ・・・我が家の池にある藤の花が咲いた。ほととぎすはいつ来て鳴くのだろうか(待ちどおしい)。

 『こぞ(去年)の夏 なきふるしてし(鳴いてその声を人の耳に古いものにする意。) ほととぎす、
      それかあらぬか(去年のほととぎすかそれとも別なほととぎすか) こゑのかはらぬ。』 
読み人知らず
  ・・・去年の夏は耳にこびりつくほどほととぎすの鳴くのを聞いた。去年のほととぎすか別のほととぎすかはわからないが
     今年のほととぎすの声も変わってないなあ。
 『いまさらに 山へかへるな ほととぎす、
                声のかぎりは 我が宿に鳴け。』 
読み人知らず
  ・・・ほととぎすよ(せっかく山から出てきたのだから)、いまさら山へ帰るのはやめて、声の限りに我が家で鳴いてくれ。

この曲は、楯山検校(1876〜1926)の作曲で、「前歌−手事−後歌」の手事物形式です。歌詞は古今和歌集、巻三、夏歌から、
時鳥をうたった歌三首を選んでいます。曲は繊細かつ多彩の趣があります。尺八は、ツの中メリが多くやりづらい感がありますが、
調子が良く楽しめる曲でもあります。山田流の「郭公(ほととぎす)」とは、別の曲です。
ホトトギス・・・時鳥・不如帰・子規・郭公などなど、いろんな漢字が使われています。中形の野鳥で初夏の頃鋭い声で鳴き、
        「てっぺんかけたかー!」と聞こえるらしく、夜も鳴きます。





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